「悪魔の証明」について考え出したらキリがなくなった
悪魔の証明・・・なんとも怖い感じの言葉。
悪魔の証明(あくまのしょうめい、ラテン語:probatio diabolica、英語:devil’s proof)とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔に例えたものをいう。中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉が由来である。(ウィキペディアより)
無いということを証明するのは不可能に近い、というような意味なんですね。例えば「霊魂は存在しない」ということを証明するためには、宇宙を含めた全世界(全次元)を探して存在しないことを証明しなければならず、それは不可能なことなので、存在しないと断言することはできないという一方で、証明する必要もないという見方もできるようです。
ということは、無いと証明することが不可能だとしても無いかもしれないし、有るかもしれない。有るものは有るし無いものは無いという事実は、証明とは別次元の話に思えます。
科学の分野では、何事も事実として証明できるかできないかが重要視されていて、理論上、存在する可能性があるとしても、証明されるまでは、それを認めることはできない、ということになるのでしょうが、悪魔の証明のほうは、証明できなくても存在する可能性を受け入れている?
「わからない・・・」
霊魂の存在、人間が霊的生命体であること、霊的次元が存在すること、そういったことは、それこそ証明が困難、いえ、不可能かもしれません。でも、人間の手によって証明されるかされないかという事は問題でなく、証明されないかぎり受け入れないっていうのもなんだか違うかなと、私は感じます。
霊魂学は、霊的なことを証明しようと試みてはいません。ただ、あるものはあると主張しています。そこに証明する必要性は感じられません。(と私は思っています)
霊的なことは、自分自身が、その存在を感じ、確信するもので、誰かが証明したから受け入れるといったものではないんじゃないかな~、と同時に自分の感性をどこまで信じていいの?って言われれば、説明は難しいかなというところです。
世の中で霊的な分野がなかなか進歩しないのは、なんとなく曖昧に受け取られがちだからなのかもしれません。霊的なことは、証明されるかされないかでなく、ひとりひとりの感性と判断に委ねられた、個人的な問題なのでしょう。
(注)この記事は、水波霊魂学で学んだことをもとに、私(さんば)の理解の範囲内で作成したものであり、契山館の公式見解を掲載したものではありません。