久しぶり、青空にかかる虹に遭遇、そして物質の不滅について考えました
細くてうっすらとですが、帰宅途中に遭遇した虹は、青空に向かって飛び出していました。
相変わらず、虹をみつけるとつい撮影してしまいます。
それは、二度と同じ虹を見ることはできないとわかっているからかもしれません。
好きなものを、映像でもいいからずっと持っていたいという思いがあるのでしょう。
物質は形を変えるけれども永遠に存在するという考え
目に見えるものが、見えなくなったからといって、それは無くなってしまったわけではありません。
物質は、目に見える形を失うことはあっても、質量としては、ずっと存在するからです。
人間もそうです。
肉体が、目に見える形ではなくなったとしても、それは確かに違う物質となってずっと存在しています。
死ぬことで肉体を失ったとしても、生命は違う形となって生き続けるのだという考えの人は多くいます。それは残った人にとっては慰めであり、生きていく力になるのかもしれません。
けれども、姿かたち、その表情や声、感触を、二度と実感できないから、人は死を嘆きます。どれだけたくさんの記憶や感情を心の中に持ち続けられるとしても、死んでしまったものが、再び目の前に現れることはあり得ないと知っているからです。
死は消失なのです。
そこに救いはないかのように思われます。
死は終わりじゃないと、現実的に考えることはできるでしょうか
できるはずです。
今、物質を超えた世界を知ればいいからです。
物質の法則にとらわれない、けれど確実に存在する次元のことを、確信するほどに知ればいいからです。
そこには本当の意味での生命の存続、生まれてから死ぬまでの記憶が作り上げる個性そのものの存続が明かされています。
消失と思える「死」は、実は単なる通過点であり、私達は、「物質の脳」に刻まれた記憶そのままがコピーされた「幽質の脳」を持って、次の次元へと進んでいくのです。
「死」そのものは、悲しいものでも悲惨なものでもなかったのです。
消滅することのない自分が、死後に、いったいどういうことになるのか、それを知る必要があるのです。
(注)この記事は、水波霊魂学で学んだことをもとに、私(さんば)の理解の範囲内で作成したものであり、契山館の公式見解を掲載したものではありません。