「死ぬかも!」一瞬でもそう思ったことがありますか?
わたしはあります。
おそらく小学校の低学年くらいだったと思うのですが、商店街のそばの、人や車がたくさん行き来する狭い道を歩いていたとき、向こうから、軽トラが勢いよく走ってきて、「跳ねられて死んじゃう」と一瞬思ったことがあります。
気がついたら、車は通りすぎていて、いったいどういう状況だったのかはわかりませんが、死ぬのかも、と思ったことだけは、はっきりと覚えています。
そういう瞬間的なことでなくても、たとえば、突然、体のどこかが痛くなったときとか、病気がなかなか良くならない時とか、特に年齢を重ねるに従って、「死」は身近な存在になってきます。
病気で、余命宣告をされて、なんとか冷静さを取り戻して、死後のことを考えることはあるかもしれません。けれど、突然、死に直面することになれば、「死んでしまう」「死にたくない」「怖い」、
そういう感情でいっぱいになることはあっても、「死んだらどうなるんだろう」「死んだら自分はなくなるのか」「死んだらどこかへ行くのだろうか」そういう冷静な問いかけをする余裕は恐らくないでしょう。
そうやって、人は何の知識も持たず、何の準備もできないまま、死に直面することになり、結局、何もわからないまま他界するのです。
亡くなった人は、きっと天国へ行った、苦しまなくていい場所へ行った、私達のことをずっと見守ってくれる。
残された人たちは、そんな風に少しでも心の痛みをやわらげようと、慰め合います。
今までは、「そうだよね、きっとそうだと思うよ」と、いたわりの言葉をかけていました。まさか、大切な人を失くしたばかりの人に向かって、「天国のような所にはなかなか行けないみたい、いい人だったけれど、天国のような所に行くためには、幽体という霊的な身体がそれなりに健康でなきゃだめで、そういう準備や訓練をしていなかったのなら・・・。」なんて言えるはずないじゃないですか。(これにしてもオブラートに包みまくりなのに)
けれども、最近、少しずつ考えが変わってきたんです。
出たばかりの霊魂学著書「死後の真相を探る」を読み進めるうちにその思いは、益々強くなりました。
もう、なぐさめやごまかしが通るような時代ではなくなっているんだと、高級霊魂方と地上の師が発信する言葉から、人類にそのような猶予は残されていないのではないかと感じています。
優しい言葉が、絶望にある人の慰めになり、生きていく支えになるのなら、それは思いやりだと思います。でも、それが真実ではなく、そのあいまいな、あやふやな言葉が、その場しのぎにすぎず、真実から目を逸らすだけのことになるのなら、救いの方法を知っているのに何も言わない自分に責任はないと言い切れるだろうか。
真実は痛烈に厳しく、惨酷です。でも真実を知って伝えないのは、もっとひどい。
なんとかして正しい勇気を持ちたい、自分を守ることばかり考えない自分になりたい、そう願うのです。
多少のオブラートは常に持参しながら・・・。
「死後の真相を探る:本物の高級霊魂が示す真実」 (アマゾンでキンドル版が発売されています・2021年11月22日)
(注)この記事は、水波霊魂学で学んだことをもとに、私(さんば)の理解の範囲内で作成したものであり、契山館の公式見解を掲載したものではありません。