送る人、送られる人

ずいぶん前に他界された知人のご家族が、その知人が好きだろうと思われる場所をみつけて、そこを「思い出の場所」のひとつにしました。

知人とはあまり関係のない場所ではあるのですが、その場所に毎年出かけていって、少しの間、思い出話をしたりして過ごします。

そこは人の少ない海岸なのですが、外海に面していていつも風が強く、波も荒く、ごつごつの岩場で、泳ぐ人も釣りをする人もいません。

すぐそばがハイキングコースの入り口になっているので小さな駐車場があり、車を停めて少し歩くと、「思い出の場所」に到着します。

年に一度、その場所を訪れるようになって5年ほどが過ぎましたが、毎回、海岸線の景色が少しずつ変わっていくのに驚きます。

目印にしているのは、大きな岩とその周りをちょうどトンネルのように海水が通り抜けている波打ち際。

そして、そこから20メートルほど手前の砂浜に立っている十字架。

駐車場から歩き出し、その十字架を見つけたらそこからまっすぐ海に向かって歩くと波が打ち寄せるトンネルに到着するのです。

その十字架にはいつも花輪がかけられていて、少し枯れかかっていることもありましたが、それほど時間がたっている様子でもなく、きっと「送る人」が、この場所に足を運び、十字架に花を供えているのだろうと思っていました。

ところが今年、いつものようにその十字架のそばを通ると、陽に焼けて色あせた十字架にかかっていたのは、切れかかった花輪の糸と、かすかに残った花びらのかけらだけ。そして今まで花輪のうしろに隠れていた文字が目に入りました。

それは女性の名前でした。おそらく、この場所で亡くなった方のメモリアルとして、ご家族か友人が、名前を刻んだ十字架を立てたのでしょう。

そして、いつも花を持って訪れていた人は、長い間訪れていない、あるいは、もう訪れることはない・・・。

頭の中をストーリーが駆けめぐりました。

私達はみな、生きている間に「送る人」となり、いつの日か「送られる人」になります。大切な人を送るのは辛く悲しくさみしいものです。そうした思いを胸に、人はお参りし、花を供え、冥福を祈り、思い出を語ります。そしていつか、自身が送られる時、そこに安らぎがありますようにと願うのです。

人間の心の切なさとか弱さ、そして愛のようなものを感じるとき、

私はそこに人間の罪や過ちの深さを感じずにはいられません。

人間は、どれほど愛の心を持ち、正しく生きていると思っていても、罪深い生き物です。

美しいと思える涙や言葉も、真実の前には枯れた花びらのかけらにすらかなわない、わたしたちは愚かな生き物です。

その現実から目をそらしてはいけないのだと感じます。

自身の正体を見破り、見つめ、真の禊によって罪を清め、目覚めることを願うのがどれほど大切なことか。

それが自分の思い描く愛や真実ではないとしても、もはや他に選択肢は残されていません。

人として、魂として、正しくありたいと望むなら、真実を学ぶことから始めるしかないのだと思うのです。

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by さんば (注)この記事は、水波霊魂学で学んだことをもとに、私(さんば)の理解の範囲内で作成したものであり、契山館の公式見解を掲載したものではありません。

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