科学者は科学信仰者ではない?!
学生の頃、理科系の科目は苦手でした。物理の授業を受けたこともありません。そして大人になってからは、科学がこの世界のすべてを解明するという考えに抵抗がありました。と同時に興味というか期待というか目を離せない何かがあったのです。
霊魂学という揺るぎない土台の上に立っていたいと決めてからも、科学という大きな世界についての可能性を考えることがあります。
それは、「科学が全てを解明するから神は必要ない」のではなく、「科学があらゆる現象を解明しようと探求を続けるがゆえに、神の存在を否定できず、神に対する信仰心が芽生えるのだ」ということです。
先日、一冊の本に出会いました。私は読書スピードが「でんでんむし」級なので、霊魂学著書以外の本に関心を持つ余裕はないのですが、今回は好奇心をくすぐられ、ぺらぺらと拾い読みすることとなりました。
「科学者はなぜ神を信じるのか・コペルニクスからホーキングまで」三田一郎著
高名な理論物理学者であり、同時に熱心なクリスチャンでもある三田氏は、この本について、
神を否定するかのような研究をしている人たちがなぜ、神を信じることができるのでしょうか?この素朴な疑問について考えることが、本書のテーマです。
と書かれています。
歴史に名を残す科学者の大多数が神を信じていたという事実をあげながら、科学者であることと、神を信じるということが矛盾するものではないということを説明するために、三田氏はこの本を執筆されたそうです。
ある科学者の発言に対する著者の思いが印象に残ったので、その部分を引用させていただきます。
ここで益川さんが言いたいのは、神を信じている者は、自然現象に対して疑問を持ち、説明しようとすることを放棄して、すべてを神にゆだねてしまっている、それは人間の進歩を止めてしまう思考停止である、ということでしょう。おそらく、神を信じる科学者に対して最も多くの人が感じる疑問も、ここにあるのではないかと思われます。(「神を信じることは思考停止か」科学者はなぜ神を信じるのか・三田一郎著より)
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人間には神をすべて理解することは永遠にできません。しかし、一歩でも神により近づこうとすることは可能です。近づけばまた新たな疑問が沸き、人間は己の無力と無知を思い知らされます。だからまた一歩、神に近づこうという意欲を駆り立てられます。「もう神は必要ない」としてこの無限のいたちごっこをやめてしまうことこそが、思考停止なのであり、傲慢な態度なのではないでしょうか。科学者とは、自然に対して最も謙虚なものであるべきであり、そのことと神を信じる姿勢とは、まったく矛盾しないのです。(「科学と神は矛盾しない」科学者はなぜ神を信じるのか・三田一郎著より)
ここで感じたのは、科学信仰というものが、科学そのものを引率している「最前線の科学者」ではなくて、「神を拒否するための理由として科学が万能であると願い期待する消費者」の思いから生まれたものではないかということです。
全てを理解したいという人間の欲求が、決して理解できない神を諦め、かわりに自分と同じ姿かたちをした人間が、全てを解明し、納得させてくれることを望んでいる、言うならば安心感と自己満足を求める、受動的な、それでいて強烈な勢いを持つ濁流のごとき現象です。
神が存在するか否か、科学が万能であるか否か、そういった討論は尽きることがありません。神の存在を証明することができないのと同様に、科学が万能であることも証明はできないからです。
それよりも人々が知るべき重要なことは、そういう人間の思いすべてに、間違いなく霊的な法則が働いていて、誰ひとり、その影響と結果に逆らうことはできないという事です。
霊的法則は、科学にも信仰心にも左右されるものではありません。
(注)この記事は、水波霊魂学で学んだことをもとに、私(さんば)の理解の範囲内で作成したものであり、契山館の公式見解を掲載したものではありません。