アストラル体で思ったこと、から思ったこと
「アストラル体」という言葉を検索している人が多いと聞いて、私も調べてみました(ちょこっとだけです。)
言葉・アイデア自体は哲学者プラトンの時代からあったようで、その後、占星術やスピリチュアルなどの分野で使われているようです。
人間の肉体を覆っている目に見えない層で、感情、発想、欲望、恐怖などを司る部分、おおもとは、宇宙に存在するエネルギーとされていて、このアストラル体が健全であれば、人生がうまくいく、願いが叶う、健康でいられる、といったご利益があると言われています。健全にするための方法は、潜在意識の訓練、パワースポット訪問、祈り、など。(Wikipediaかじり読み情報です)
そういえば、霊魂学に出会う前、ずいぶん前に読んだ本の中に、「アストラル・プロジェクション」という言葉があったことを思い出しました。幽体離脱と似たような現象だったと思います。主人公が瞑想をしている間に、自分が肉体から出てどんどん上昇していくのですが、肉体から一本の線が出ていて、それがずっと自分に繋がっていて、もしそれが切れたらもう肉体に戻れない…確かそんな感じでした。
人はそれぞれ、短い一生の中でそれぞれ、色んなものに出会い、興味を持ち、様々な道を行くんだなあ、と改めて感じました。
「たられば」論は価値がない、意味がないと思う方もいらっしゃるでしょうが、あえて考えてみると・・・
アストラル体とかスピリチュアルとか願望達成とか世界平和とか、確かにかっこいい!ですよね。なんかすごい前向き・ポジティブだし、正義の味方みたいだし、みんなの為になりそうだし、自分も幸せになれそうだし、
私は霊魂学に出会う前から、そういうジャンルには興味があったので、もし、霊魂学に出会っていなかったら、
きっと何らかの形で、そういう世界に関わっていたことは容易に想像できます。もしそうなっていれば、その結果どうなっていたかはもちろんわかりませんし、それこそ「たられば」なので、あまり意味がないのでしょう。
そして今、私がたどり着いた「霊魂学」という世界、「霊魂学徒」という立場、「霊的トレーニング」という活動、そこから確信したことは、真実は変わらない、ということです。
いろんな説や論があり、それぞれ説得力があり、影響力があり、それぞれに追従者がいて、反論する人がいて、無関心な人がいて、それが現実なのですが、それでも「真実は変わらない」ということです。
何かと理不尽な世の中ではありますが、心の中で何を信じるかという選択や判断は、人に残された数少ない自由のひとつだと思います。
そして人は、その自由に責任を持てと言われます。
心から信じた道がいつか間違いだと判明しても自己責任。
信じなかったから騙されなかったし、一生を棒に振ることもなかったし、よかったあ、と思うのも自己責任。
他界後に現実として向き合うことになる世界が、どのようなものであっても、自己責任。
責任も何も、真実に向き合うしかありませんので、その時に悔やんでも文句をいっても懇願しても、そうそう現実は変わりません。
死んだら消滅すると思っていて本当に消滅したら責任は回避できますが、そうでなかったらどうなんでしょう。
世の中には様々な考え方があって、本当に人それぞれなのですが、全員、必ず死ぬ日が来ることは間違いないのに、そのことに関してあまりにも無頓着であることに、やっぱり驚きます。
他界した人のために色んなことをするけれど、自分が他界する立場になる時、本当のところがどうなんだろうって、なかなか考えるに至らないのも現実なのでしょうか。
霊魂学動画・死後の世界・普通の人はどこへ行く?
霊魂学動画:幽体離脱は誰でもできますか? できません。
(注)この記事は、水波霊魂学で学んだことをもとに、私(さんば)の理解の範囲内で作成したものであり、契山館の公式見解を掲載したものではありません。