見えないということの悲劇
ひとつ目の光景
約2年ぶりに、人が集まる場所に出かけました。世間では、いろんな規制が緩和され、対策も行き届いたということなのか、あるいはこれ以上は仕方ないということなのか、どちらにしても2年前の緊張感はほとんど感じられません。観光客が集まる場所は人がたくさんで、レストランも、ほぼ満席でした。通りには大声で話す人たちがいたし、テーブルや椅子を消毒して回る人の姿は見られませんでした。感染拡大前の街の姿に戻りつつあるんだな、と思わせるような夜でした。
ふたつ目の光景
帰宅してテレビをつけると、ある国の戦争で破壊された街の様子が流れていました。住人が避難して空っぽになった街に、「生まれ育ったこの場所が好きだから」、そう言って戻ってきた家族がいました。電気も水道もガスも止まったままの家の外で、火を起こし、調理をしていました。「爆撃で家が半壊したけれど、寝室はそのままの状態で残っていた。この場所で、何があっても乗り越えていくという希望とエネルギーを感じている」、そう話していました。
みっつ目の光景
そこには人の目に見えない光景があります。大勢の、天使のふりをした天使じゃない霊魂と悪魔のふりをした悪魔じゃない霊魂が、あちこちで活動しているのです。快適な空間で楽しい時間を過ごしている人のそばにも、生き延びるためにすべてを置いて故郷をあとにする人のそばにも、霊的身体がスキだらけの人間をもてあそぼうと物色している霊魂たちがいます。
目に映る光景はまったく違っていても、そこにある、人の目に見えない光景は、目に見えるどんな光景よりも危険で、悲惨なものなのです。目に見えないという致命的な現実が、いつまでも人を惑わせています。
(注)この記事は、水波霊魂学で学んだことをもとに、私(さんば)の理解の範囲内で作成したものであり、契山館の公式見解を掲載したものではありません。