嘘はバレなきゃ大丈夫?
俺はカワウソ・・・・
嘘は必要悪とか嘘も方便とか言うけれど
気がつけば、回りは嘘だらけ。
世の中、嘘なしでは、成り立たないのでしょう。
だから、嘘も方便とか、いい嘘、思いやりの嘘、都合よく理由をつけて嘘を許すのです。
では、霊的な角度から考えてみましょう。
幽質界に入ったら、人間は、「言葉」を失くします。その代わりに、「思い」を使います。
思いというものは、ごまかしようがありません。
それまでは、「いやだなあ」と思っていても、「大丈夫よ!」と言葉でごまかすことができました。
けれども幽質界というところは、「いやだなあ」と思った瞬間に、その思いは、口に出して言うように外に飛び出してしまうのです。
あ、いや、その・・えっと・・口、いや、思いが勝手に・・・
嘘が通用しないというか、嘘というものがなくなるのかもしれませんね。
そして、飛び出した思いが、相手にすぐ伝わって、気まず~くなったり、喧嘩になったり。
その思いは「念」という形でぶつかり合いを始めます。
では、この世にいる間は、言葉があるから大丈夫! でしょうか?
それが、そうでもないようですよ。
この世では、言葉でごまかしたり、表情でつくろったりできますが、
内にある思いは、幽質の「念」となって、飛び出したりするのです。
それが、相手にぶつかったり刺さったり、そして何となくそれを感じた相手も、念を投げ返してきたりして、
地上でも、人間同士が、けっこう派手に「念喧嘩」をしているようです。
今、ぶーぶー思っただろ~!
だから、念の飛ばし合いをしないのが一番なのですが、そううまくはいきません。世の中、生きていくのは大変です。
腹立たしいこともあれば、悔しいこともあり、文句のふたつやみっつやよっつやいつつやむっつや・・・
しかも、とばっちりで飛んできた念に幽体が傷つくことだってあるんです。
嘘がいいとか悪いとかよりもっと大事なのは幽体への影響
この世から嘘をなくすことはできないでしょう。
嘘とまでいかなくても、思ってもいないことを言ってしまうことはあります。
自分も回りの人もきっとみんなそうです。
そしてその結果、どれだけの「念」が飛び交っているのか、私達にはわかりません。
だからできることはただひとつ。
自分の身は自分で守る=自分の幽体は自分で守る
「念」のぶつけ合いを心配したり恐れたりするよりも、ちょっとやそっとでは傷つかない幽体に鍛え上げるほうが理にかなっています。
契山館が指導する「霊的トレーニング」の大きな目的のひとつは、自身の幽体を強くする、ということです。世の中を生きていく上でも、幽体のトレーニングは必須であり、理にかなっているんですね。
(注)この記事は、水波霊魂学で学んだことをもとに、私(さんば)の理解の範囲内で作成したものであり、契山館の公式見解を掲載したものではありません。