霊魂学徒・霊的修行者は普通人じゃないのでしょうか?
霊魂学を学び、霊的修行を実習する契山館の会員のことを霊魂学徒、霊的修行者と呼んだりします。
小さな団体で、会員が全国に散らばっているので、会員同士の交流も地域ごとという制限が大きくなります。
契山館のHPには、誰でも書き込める掲示板が2箇所あります。
私が霊魂学・契山館に出会ったときは、近くに会員の方がおらず、もっぱら掲示板を眺めていました。契山館会員の方々がどんな人達なのか、リアルな様子がわかるのはそこくらいだったからです。ずっ~と年月をさかのぼって、ふたつの掲示板の記事を読破したんです。初めて書き込みをしたのは、霊的修行の合宿に無事参加できて、帰宅した時だったので、出会いから1年ほど過ぎた頃でした。
スピリチュアルにハマっているというと何となく変人の可能性ありと思われたり、宗教熱心と聞くと敬遠・嫌悪する人も多いようです。こうした分野は、まだまだ一般社会での立ち位置が微妙なんですが、いざ自分がそういうサイドの人間になると、思いのほか何も変わらないなあと感じるんです。
というか、正直、何もかも全てが変わったと同時に、何も変わらない、というへんてこな印象。
他の会員さんの中には、もっと劇的な体験をされている方がいらっしゃるだろうと思いますが、私は恐らく、かなりフツ~です。
霊的トレーニング・霊的修行というのは、それこそ人間の霊的部分を劇的に変えてしまいます。でもそれは、肉体を持って生きている間には、それほどわからないんです。一般に知られている超能力や霊能力なんて全くつきません、幽体離脱や霊視なんてまるで縁がない。
契山館は、そういうところなんです。そしてそれこそが、この世に唯一存在する、本物の霊的成長を実現できる場所なんです。
滝に打たれるような厳しい修行ではなく、ルールや制限がいっぱいある教団などでもありません。
心の葛藤。肉体を持つ自分 vs 霊的な自分・・とでも言うのかなぁ。
でも、ぱっとしない会員ではありますが、「ここしかない」「ここなんだ」という安堵感や信頼、といったものは、まぎれもなく根付いているんです。そして、この場所にいられることをとても幸せだと感じています。
だから無理強いは決してしないけれども、できるだけ多くの人がその選択肢を知ることができるようにと、活動を続けたいと思っています。
(注)この記事は、水波霊魂学で学んだことをもとに、私(さんば)の理解の範囲内で作成したものであり、契山館の公式見解を掲載したものではありません。