キリストの受難とクリスマスのお祝い(閲読注意)
今日はクリスマスイブですね。
キリストの誕生日の意義を考える上で、その反対の日、つまりキリストの受難の日を想像してみました。
イエス師は、30歳頃から33歳で捕らえられるまで、人類を真に救うために、人々にその方法を説いていました。
でも、それを快く思わない人達から嫉まれ、無実の罪で捕らえられました。
裁判は公開となっており、集まった民衆は「十字架にかけろ!」と叫びます。
その結果、イエス師の刑罰は磔刑に決定されました。
約2000年前のローマでは、磔刑は極刑であり、これ以上残酷な刑罰はないという位、過酷な刑罰だったようです(その後、残酷すぎるという理由で廃止されたようです。)。
まずは、鞭打ちという前座があります。
回数は40回に満たないという数に制限されていたようですが、おそらくイエス師は、キリキリに近い数を打たれたと思われます。
その鞭には、獣の骨や金属の破片などが埋め込まれており、肉をズタズタに引き裂くことができるものだったようです。
一打毎に、全身が張り裂けるほどの衝撃を感じたと想像します。
イエス師の皮は裂け、肉や骨も剥き出しになる等、体はボロボロになったと思われます。
それでも、民衆の憎悪は治まりません。
鞭打ちの後は、イバラの冠をかぶらされます。
それ故、痛みは頭にも及び、血が噴き出します。
民衆の嘲笑や罵声も浴び、精神的にも痛めつけられます。
その上で、自分自身が張り付けられる十字架を背負わされます。
さすがに、処刑場までの1キロ以上の道のりを全部自分で担ぐことは出来ず、途中で誰かが交代してくれたようです。
こうして、処刑場とされているゴルゴダの丘に着きました。
磔刑は見せしめ刑ですから、大勢の民衆も集まっています。
そこで、イエス師は全裸で十字架に横たわらされて、手と足に釘を打たれます。
鞭で打たれ、イバラの冠をかぶせられて、既に極限に近い痛みを受けていても、新たに生身の体に釘を打ち付けられれば、さらに衝撃が走ったと思われます。
手の平に打つと、十字架を立て掛けた時に手が裂けてしまうので、手の平と手首の中間辺りに釘を打ったようです。
足は曲げられて、かかとの辺りに釘を打ち付けられたようです。
こうして、手と足を釘で十字架に打ちつけられると、吊るされたような形になりますが、それにより、腕が伸び、肩は脱臼してしまうようです。
でも、十字架刑は、長時間苦しめて殺す処刑方法ですから、直ちには死なないように考えられているようです。
十字架に張り付けられたまま、呼吸をしなければなりませんが、体の重みで気道がふさがります。
呼吸するためには、ぶる下がったままではなく、体を上に持ち上げなければならないようです。
そこで、足や腰を木に押し付けて、体の重みを分散させて支えるのですが、それが限界に達すると窒息死するようです。
こうして、イエス師は絶命されました。
その後、時が流れました。
キリストの処刑について、「キリストは、人類の罪を背負って死ぬために生まれてきて下さった。神の一人子を生け贄として捧げるほど、神の愛は深かった。」と説かれるようになりました。
えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!
当時の人達は、無実のキリストを殺しているのに、その死は最初から予定されていたって!?
キリストは、最初から殺されるために生まれてきたって!?
じゃぁ、ユダも、民衆の憎しみも「殺せ」という言葉も、神の計画どおりだったってこと?
と、私は疑問に思うのですが、あなたはどう思いますか?
「人類の罪をあがなって殺されるために、生まれてきて下さった。ありがとう。」と言って、クリスマスを祝いますか?
それとも、キリストを殺しておきながら「死ぬために生まれてきた」等と解釈すること自体、新たな罪を作っているとして、恐れおののきますか?
まぁ、日本ではキリスト教徒は僅かであり、クリスマスは子供達を喜ばせるためのお祭りだったり、恋人達のロマンチックな日だったりと、楽しい行事の日ですから、誕生日の意義を考える人はほとんど居られないとは思いますが。
でも、キリストが全人類の救い主だとしたら、キリスト教徒でなくとも、私達一人一人がキリストに関係していますよね。
イエス師が言われた「悔い改めよ」の意味を、もっとよく考えてみたいものです。
参考動画「霊魂学動画・イエス師は救い主ですか?」
(注)この記事は、私(ドーン)の理解の範囲内で書いており、契山館の公式見解を掲載したものではありません。